環境省平成17年度主体間連携モデル事業委託業務(省エネ住宅1)

長寿命住宅小野寺家100年の大空間


長寿命住宅小野寺家の修理改修とその社会的背景

長岡造形大学名誉教授
ぶなの森塾みやざわ民家研究室
宮澤智士

1 小野寺家の概要

* 小野寺家は宮城県気仙沼市下八瀬(しもやっせ)に所在する農家である。下八瀬集落は気仙沼市の中心市街地の西北面方6キロメートル程の山間の地にある。8〜9頁の写真にみるように山の斜面を造成して小野寺家の敷地は作られている。この敷地は桜久保屋敷と呼ばれている。現在、この敷地内には、東を正面として建つ主屋しゅおくを始めとして、この左右に並ぶ小家(コエ)と馬屋、前方にある離れ座敷、正面に向かって左手のやや離れた位置に建つ板倉など計5棟の建物がある。これらの背後に屋敷神、墓地がある。以前はこの他に主屋前に独立して建つ湯殿(ゆどの)、道具小屋など数棟の付属屋があった。
 主屋の建築年代は、座敷の襖絵や伝承などを参考にして、明治38年と推定できる1)。平成17年現在でこの主屋はちょうど満100年になる。この間、主屋は建築から55年後にあたる昭和35年、さらにこの45年後の平成16年の2回にわたって、増改築をともなう大規模な修理改修工事を行っている。
 本稿では、小野寺家主屋の明治38年建築当時の概要を復原的に述べ、続いて昭和35年と平成16年の大修理改修の内容とその意義について述べたい。

2 明治建築当時の主屋概要

 小野寺家主屋は、後世の数回にわたる修理改造によって、明治38年の建築当初の姿とは大きく変わっている。建築した当時の主屋の姿を復原的に知る具体的な資料は、もちろん現存の主屋そのものであるが、この参考資料として、大正12年の家相図、昭和16年撮影の小野寺家住宅の全貌が写る写真(8頁)、その他主屋が写る写真が役立つ。これらの資料をもとにして、小野寺家主屋の建築当時の外観、規模、平面、構造形式などの概要を復原的に記す。

a 形式と規模、間取り

 建物は、寄棟造(よせむねづくり)茅葺きで、大棟(おおむね)の上に気抜(きぬき)の小屋根が乗っていた。主屋の規模は主体部で桁行59尺(17.88m)、梁間35尺(10.61m)である。桁行59尺のうち土間部は24.5尺(7.42m)居室部は34.5尺(10.45m)となる。

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上 昭和16年の小野寺家全景  下 大正12年の家相図(部分)

 建物は向かって左側を下手として土間部にあて、右側の上手を居室部とする。下手の土間部は土間ニワと板間(いたま)からなり、囲炉裏が切ってある広い空間でロバタと呼ぶ。ロバタには前面に大戸口、背面下手に幅10尺程の作り付けの戸棚2)があった。ロバタの下手側面に戸口があって、ここにダシヤと称する下屋(げや)を下ろして、炊事場、流しなどの水まわりの設備を配置していたと思われる。ロバタ表側に現在、入母屋型瓦葺きの玄関構えが張り出しているが、建築当初はこの玄関構えはなく、主要な入口は土間部表側の上手寄りに開く大戸口であった。

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 ロバタ上手の居室部は、田の字型に4室が配置され、この背後全体にわたって出6尺5寸の細長い部分があってナンド、物置に当てていた。(おもて)の4室は、ロバタに接して七畳半のナカマと、神棚、仏壇を(まつ)る十二畳半のオカミとが表裏に並び、この上手は書院造の続き座敷で、七畳半のコデと、床・棚・書院の座敷飾りを備えた十畳のオオデとの2室が表裏に並ぶ。この上手にヒラキと称する内縁(うちえん)がある。表側は濡縁(ぬれえん)であった。居室部は改造が少なく建築当時の姿をよく伝えている。
 主屋にはナカマの上にのみ建築当初から二階部屋があり、この前面に低い天井の縁側があった。
 ロバタには天井はなく豪壮な梁組と屋根裏があらわれており、棟に設けた煙出しがみえた。田の字型の4室のうち、書院座敷2室には竿縁天井(さおぶちてんじょう)、ナカマとオカミには根太天井が張ってあり、梁組は見せない。主な部屋の広さ、天井高、装置は左表の通りである。

b 材料と構造

* 主屋の柱には大きな断面のクリ材を用いている。建築構造の形式はいわゆる下屋造(げやづくり)で、建物の中央部を一段高くし、その周囲に下屋(げや)をまわし、両者を一体にして梁を組んでいる。ロバタの下手中央部に断面の大きな大黒柱(だいこくばしら)(ウシモチ柱)が独立して建ち、ウシモチ梁を受けている。ロバタの上部には曲がりの少ない太い梁を整然と組んである。
 土間部ロバタの表と裏側通りとナカマ・オカミ境、およびナカマ・コデ前面通りの4ヵ所にオトシナゲシと称する長大な内法材(うちのりざい)(鴨居)を通している。オトシナゲシは、柱の断面を内法位置でホゾ状に削り取って断面を小さくして胴付(どうづき)を作り、この削り取ったところに合うようにホゾアナを彫った横材(オトシナゲシ)を落とし込むのである。なお、居室部上部の梁組はロバタとくらべて単純である。

c 特 徴

 明治建築当時の主屋は、主要な各部屋ともに広く天井が高く、全般的に大空間を構成しているところに特徴がある。

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茅葺き時代の主屋前面。奥に茅葺き屋根の馬屋、主屋との間にダシャの斜めの壁が写る

 特にロバタと呼ぶ土間部は、大黒柱が独立して建ち、縦横に走る豪壮(ごうそう)な梁が高い位置に組まれる。しかもこの梁組は下から見上げることを意識してデザインされている。梁組から屋根裏まで見通せる空間構成は古民家にみられる一つの特徴である。これに対して居室部は天井が張ってあって梁組をみせない。梁組をみせないので天井上の梁組はロバタと異なってごく簡単に組んである。
 コデとオオデは、正規な書院造の手法にしたがった2室の続き座敷であり、端正な落ちついた空間を構成しており、梁組をみせない。次にロバタとコデ、オオデの間に挟まったオカミとナカマ部分は、内法に断面の大きなオトシナゲシを用い、またオカミでは高い位置に根太(ねだ)天井を張るが、ナカマは上に二階部屋があり、その床がそのまま根太天井になっている。したがって天井は低い。書院造ではなく民家の構造手法による空間である。
 構造手法の特徴は内法位置に用いている長大なオトシナゲシである。この部材は差物でなく柱に落とし込む工法によっており、建物の構造体を強固にしている。この地方の民家に用いられた特徴ある部材である。
 この主屋の主要な柱はクリ材であって、自家用の木材を製材して使ったものと考えられる。柱の断面は細かく測ってみると、一つとして同じものがなく、みな寸法が異なっている。梁材は全般に断面の大きなものを用いており、時代をよくあらわしている。
 次に便所、風呂場が屋内にない点も現代の住宅と違っている。小野寺家では主屋の前に別棟の建物として建てられていた。農家では排泄物は溜めておいて肥料として使うのであった。

3 第1回目の大修理−昭和35年およびそれ以降

 昭和35年の主屋の第一回目の大修理は現当主小野寺尚一氏によって行われた。その主な点は、茅葺き屋根を瓦葺き屋根に変え、これにともなって建物前面に玄関構えを新設し、一階、二階の縁側を整備したこと、また、ロバタを仕切って小さな部屋に分けたことである。その詳細は次の通りである。

a 外観部分

1)寄棟造茅葺きであった屋根を入母屋造桟瓦(さんがわら)葺きに変えた。これにともなって小屋組をサス組から洋小屋(28頁写真、右断面図参照)に変え、軒を瓦屋根に見合うセガイ造にした。
2)正面の大戸口を廃して、前面に張りだす入母屋型瓦葺きの玄関構えを作り日常の出入口とした。
3)部屋前面の濡縁(ぬれえん)の幅を広げ4.5尺にし、縁先(えんさき)に雨戸を建てて内縁(うちえん)に変えた。二階の縁側も一階にあわせて幅を広げ、繋梁(つなぎばり)を高い位置に変え竿縁天井を張った。

b 屋 内

1)ロバタはもともと大規模な一空間であったが、ここを数室に区切った。真っ黒に(すす)けていた梁組を天井を張ることによって隠し、低い位置の梁にシックイを塗って隠した。また、黒く煤けていた大黒柱も同じくシックイを塗って隠した。
2)建築当初は二階の部屋は前面中央部ナカマ上の1のみ室であったが、この下手ロバタ上部に2室を新たに作り3室に増した。この部屋を作るさいに一部の梁を切りとった。
3)ロバタの下手のダシヤの炊事場、その他を整備した。なお、ロバタ上手のオカミ、コデ・オオデなど居室部には改造はない。ただし、ナカマの根太天井を10cmほど高くした。

c 修理の社会的背景

 昭和35年の修理は、1)茅屋根を瓦屋根に変え、2)前面に玄関構えを新設し、一階、二階の縁側を整備したことである。また、3)ロバタを仕切って小さな部屋に分け、黒く煤けていた大黒柱や梁組などを隠すことなどであった。

1)茅屋根は葺き替えの時期が近づいていた。すでに近世的な共同体が崩れるなど社会が大きく変わり、茅屋根の維持は容易でなくなった。茅集めが困難になり、屋根葺き職人が得にくくなっていたので、茅屋根をやめ瓦屋根に変えるのが時代の趨勢(すうせい)であった。
2) 前近代の農家の主な入口は土間に開く大戸口であった。一部上層の家では書院座敷をもち、大戸口とは別に座敷専用の玄関を構えた。明治時代の建築の小野寺家に玄関構えはなかったが、昭和35年の修理にあたって新たに玄関を構えた。ただ、この玄関構えは座敷専用のものでなく、大戸口に代えて土間に作ったもので、いわば現代的な玄関である。

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3) 東北地方の冬期は寒い。いまやひたすら我慢しているという時代ではなくなった。日常生活の場である広いロバタを少しでも暖かくしようとした。このロバタを暖めようとしても、建物自体の断熱性気密性がよくないので、それは容易にできない。そこで小さな部屋に区切ったのである。当時、一般民家では暖房器具は炭や練炭をつかうこたつ程度のものであり、家全体を暖房することはなかった。小野寺家もそれは同様であり、ロバタのいろり1ヶ所であった。かつてはロバタで火を焚いた。そのときにでる煙で大黒柱や梁など部屋中の部材が真っ黒に煤けた。日本経済高度成長期の時期には、古民家の居住者は黒く煤けた柱や梁は醜く恥ずかしいものだという意識を強くもっていた。それを天井や壁を新建材で作り隠したのである。この時代の一般的趨勢であった。

4 第2回目の大修理−平成16年

 平成16年の大修理は尚一氏の長男小野寺英一・美恵子夫妻によるものである。いうまでもなく破損や腐朽している土台やゆか材などの部分、不同沈下(ふどうちんか)や傾斜している柱等は修理して欠陥を修正し、また復原すべき点は復原する。このように従来から文化財建造物で一般的に実施している修理の他に、古民家の一つの欠陥ともいえる寒い家を暖かい家に改良することを大きな目的の一つとした。この点は所有者が第一に希望することであった。この修理の設計監理者は安井妙子、監修者は宮澤智士であるが、われわれはこの古民家の著しい特徴である大空間を復権することを提案した。平成16年の修理にあたっては上にあげた二つの事項を基本方針とした。つまり、
第一の柱
長寿命住宅として、その歴史的文化的な品格ある大住空間を復権する。
第二の柱
この長寿命住宅に現代の技術を用いて快適な住空間を作る。なお、この工事の施工にあたったのは仙台の株式会社阿部和工務店(会長阿部和央)である。

a 大住空間の復権

 後世の改造で小さな部屋に仕切ってあったロバタを、明治時代の建築当時の雰囲気をもった大住空間に復原した。

1) ロバタに後に設置された間仕切り、天井等を撤去して、隠されていた大黒柱、雄大な梁組をあらわすとともに、ロバタの大空間を再現した。ただし一部、「玄関の間」、「書斎」と「大戸(おおど)の間」がロバタに張り出しているが、「玄関の間」、「書斎」は低い間仕切のみにとどめその上部を梁組まで達しないようにし、また天井を設けず、ロバタの空間の広がりがわかるような配慮をしている。
2) 田の字型のオカミ・ナカマ、書院座敷コデ・オオデ部分は建築以来の大空間をそのまま伝えているので、間取りには手を付けなかった。ただ、外部に直接面さず暗い大部屋であるオカミには明るさを確保するために天窓を設けた。

b 現代技術、器具等を用いて快適な住空間を作る

b -1 高断熱高気密の施工
1) 建物全体にわたって高断熱高気密、計画換気の施工をして建物の性能を高めた。冷暖房器具が効率よく働き、冬も寒くなく住むことができて、夏も涼しい家になるように設計した。
2) 外回りに断熱・気密性の高いサッシを用いた。このさいに窓の位置や大きさも必要に応じて変えた。
3) 灯油ボイラを設置し、パネルヒータを一階のみ11ヶ所に配置した。
4) なお、出入口である玄関部分を風除室にあてた。

b -2 間取り等の整備
1) これまで外部にあった便所・風呂場、これに加えて洗面所、家事室をロバタ下手のダシヤ内に取り入れ、器具も最新的なものを採用した。この他に便所をコデ上手の縁側(ヒラキ)、二階表の廊下の下手端に設けた。
2) ロバタの一隅(いちぐう)を家具で囲って台所とし、システムキッチン、アイランド流しを設備し、伝統的な建築空間のなかで近代的な住生活が出来るようにした。なお、台所を囲む家具の一つとして、ロバタの背後に張り出して作り付けてあった戸棚を、玄関から入った直に見える位置に移動して再用した。
3) 家族の個室を確保した。居室部背後のナンド・物置部分を整備して寝室にした。また、玄関の間の両脇下手に「書斎」、上手の子供部屋を主人の部屋「大戸の部屋」に作った。「玄関の間」に階段を設けた。
4) 二階にゲストルーム2室を作り、ベッド、洋服入等を備えた。
5) オオデの床の間・棚裏の物置上部、つまり建物の上手裏の隅に新たに秘密の部屋ともいうべき二階部屋を作った。ここには屋根裏に登る梯子段(はしごだん)がある。

b -3 構造補強
1) 地震に対処する構造補強として、各柱の足元を角材で挟んで連結して構造強度を高めた。
2) 書院座敷まわりは、柱数が少なく柱断面と壁量が不足しているとみられるので、部屋境の開口部の一部に耐力壁を新たに設けた。場所はナカマ正面、ナカマとコデの境、コデとヒラキの境の3ヵ所である。

5 修理による住宅の変化と社会的背景

長寿命小野寺家住宅の大改造は、第一回目が明治38年建築の55年後の昭和35年、第二回目がさらにその45年後の平成16年に行われた。この大改造の社会的背景を以下のように考えることができる。
 第一回目は、前近代的であった民家が近代化する改造であり、農作業が機械化されるなかで、農作業空間を含んでいた土間部に床が張られて居住空間になり、元来、併用住宅であった家屋が専用住宅に変容した。
 第二回目は、古民家の伝統的な優れた空間を復権し、その優れた空間を活かしながら、そこに現代の技術、器具を用い、耐震補強をして快適な住空間を作った。この結果、冬期も寒くなく安心して快適に住むことができる住宅になった。この住宅は今後の日常的な維持管理、修理によって、さらに100年、200年と寿命を延ばすことができる。これは古民家にとって一つの改革でもあると考える。

[注]
1)当家の伝承によると、主屋は尚一の祖父平十郎の子チヨミが生れた年(明治38年)に建てた。オオデの奥絵は地元の画家吉田晴雲(安政4.3〜大正11.4)の作である。明治38年、晴雲は48歳である。(『八瀬』郷土文化保存伝承館落成記念誌.1997)
2)この戸棚は、もとの位置から表寄りに約15尺移動して再用した。



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