環境省平成17年度主体間連携モデル事業委託業務(省エネ住宅1)

長寿命住宅遊佐家三百年の風格


長寿命住宅 遊佐家三百年の風格

長岡造形大学名誉教授
ぶなの森塾みやざわ民家研究室
宮澤智士

1 はじめに

* 遊佐家は宮城県登米市中田町石森二木に所在する農家である。遊佐家の敷地は二木館跡であると伝える。小高い丘を背にした敷地に主屋が正面を東に向けて建つ(59頁)。主屋(しゅおく)下手の前に馬屋、後ろに味噌蔵、主屋上手に広間が並び、さらにその上手に土蔵と板倉が建つ。馬屋の斜め前に外便所がある。主屋は、寄棟造、茅葺き型鉄板葺き、平入、規模桁行59.5尺(18.03m)、梁間32.0尺(9.70m)である。
 遊佐家を始めて訪れたとき、主屋がどれほど古いか確認しようとしたのだが、実のところ古い部材が見えなかった。ほとんどの柱には新しい板が被せてあった。また、もとは広い一空間であった土間ニワは、5室に細かく仕切られ、天井が張ってある。梁組などはまったく見えなかった。この他の部屋も同様に柱に板が被せてあり天井が張ってあって古いところが見えなかった。わずかに見えたのはオカミの土間ニワ境に建つ柱の上部の一部のみであった。しかし、建物の丈が低く屋根勾配が緩い。復原的にみると土間ニワ(27.6尺×32.0尺)が広く、居室部(28.4尺×32.0尺)とほぼ同じ面積であるなど、特に古い民家に共通する要素をもっていた。
 解体してみて柱に板を被せた理由がわかった。曲がり材を用いた柱が多くあり、古い細工の傷痕が付いている柱も少なくなかった。さらに建物の不同沈下(ふどうちんか)が著しく、柱は背面に向いて大きく傾いていたのである。この柱の傾斜を応急的に修正して建具を動くようにするために、柱を削りとるなどして、そこにケヤキ板を垂直に貼ったのである。この改修は当主の遊佐桂氏の代にやった。この修正によって一見したところでは、ケヤキの太い柱が立っているようにみえる。これで建具が隙間なく入るようになった。
 2004年の改修事業では、柱に貼ったケヤキ板をはぎ取り、建物の不同沈下や傾斜を修正する根本的な修理を実施したのである。建物の背後が丘陵であって湿気が多く、建物の背面の土台や柱の足元はひどく腐朽していた。下手の側面通りの柱や土台はほとんど新材に変わっていた。これらの部材は長い年月の間にいくども修理され取り替えられもした。 今回の修理前には、すでに背面の建築当初からの柱はなくなっており、すべて後世の新しいものに変わっていた。土台はもともとはなく、柱を取り替えたさいに入れたものであるが、著しく腐朽していた。
 上記の通り破損、腐朽が大きかった遊佐家の改修工事にあたって、次の2項目を基本方針とした。
◎17世紀にまで遡ると思われる古い民家であることを重要視し、建築当初の姿を尊重し、建物の歴史的文化財的価値を高め、往時の美しさを引きだす修復をする。
◎日常生活が快適にできるような改修をする。寒くない家にする、水廻りの諸設備を機能的なものにする、家の中を明るくすることなどは所有者が望んでいたことである。
 修復の結果、この建物の美しい構造体があらわれた。特に土間ニワやデイの梁組やその空間は格別に美しい。所有者は新しい住宅に満足し、ストレスから開放された。[左の三浦康子さんの文参照]

2 主屋の建築年代と建築当初の復原考察

a 建築年代−17世紀末頃

 遊佐家の主屋は、建築年代を明確にする棟札(むなふだ)、墨書、普請帳(ふしんちょう)などの資料は見つかっていない。しかし、建物の解体工事にともなう調査をしていくうちに、古い構造形式や古い要素を多くもっており、建築年代が相当に古いことがわかってきた。当家が立地する地域、建物規模、構造形式など諸般の条件を考慮すると、当主屋は17世紀末頃、つまり建築後300年程度の年月を経過していると推定できる。なお、建物がもつ古い構造形式や要素は、後の項であげる。

b 建築当初の平面の復原考察

*

* ここでは建築当初はどのような平面であったか考察したい。遊佐家の主屋は、建築年代が古いだけに、建築後に何回もの改造を受けており、柱や梁などの部材には、古いものからごく新しいものまで、時代が異なる新旧の部材が混じっていた。また、たとえば、はじめから建具が建っていた柱間であれば、柱と柱の向かい合う面は滑らかに削ってある。ところが柱面に貫穴(ぬきあな)(間渡穴)(まわたしあな)の跡が残っていて、もとはそこが土壁であったと判断できる箇所が少なからずあった。また、後に切り取られ一部のみが残存している部材もあった。
 復原考察は、まず、柱など部材の新旧を見極め、そこに古い細工の跡があるかを調べることから始まる。このような調査を各部材について行い、部材の新旧、痕跡等を図面に書き込んでいくのである。この図面を痕跡図といい、復原考察にあたって基礎的な資料となる。痕跡図は昭和30年代初めころ民家調査が盛んになり始めた時期に開発普及した。
復原考察にあたっては家相図などの図面があれば大いに参考になる。幸いにして遊佐家には、現存の建物に比べてごく新しい時代のものではあるが、昭和12年(1937)の年号のある家相図があった。建物自体の痕跡調査や家相図など文献資料を総合的に活用して、復原考察をしていくのである。
 部材に残る痕跡の一つ一つの説明は省略するが、ここでは今回(2004年)の修復直前の状況を基礎にして、昭和12年家相図を参考にしながら、建築当初の平面を復原的に考えてみよう。
修復直前の平面と昭和12年家相図の平面とを比べると、両者はよく似ている。平面は下手の土間ニワ部、中央のオカミ部、上手のデイとナンド部で構成されている。
修復直前の土間ニワは5つの小部屋に分かれていた。まず玄関の土間があり、この下手が「おじいさんの部屋」の前室、この奥には勝手口の通路を挟んで台所があった。土間ニワの上手表は客間、裏は居間である。また、土間ニワの下手にダシヤがあって、「おじいさんの部屋」、勝手口の通路を挟んだ台所の下手に浴室・便所があった。
家相図ではほぼ中央で左右に分け、右手表はかまどがある土間、裏は板間、左手は囲炉裏を切った板間の3部分に分かれている。背面に戸棚と小縁(こえん)が描かれている。
次にオカミ部は、(おもて)のナカマ・中央のオカミ・裏の物置の3部屋に分かれている。ここは家相図と改修直前の平面が一致している。デイとナンド部では、ナンドの下手の縁側が、家相図では室内に取り込んだ形に描かれている。これに対してデイ部分は両者がほとんど変わらない。
 以上でみたように、修復直前と家相図とで違っているところは日常生活の場にしている土間ニワである。
 次に調査によって得られた建築当初の平面は上図の通りである。この平面は、土間ニワと中央部の表から裏まで通っているオカミ、上手の表裏に並ぶデイとナンドからなっている。3区画からなることは、修復直前、昭和12年家相図と同じであるが、詳細にみるといくつかの異なる箇所がある。この主な点は以下の4点である。@土間ニワ部、オカミ部が小部屋に分割されず、それぞれが一空間である。Aデイに床の間や押入がない。B縁側がない。C開口部が全般に少なく土壁の多い閉鎖的空間である。

c 構造の復原観察

構造形式の復原考察の資料は建物それ自体である。図面等の参考になる資料はない。後世の内装、造作を撤去して、建物全体の構造体がよく見えるようになったところで、構造に改造等がないか仔細(しさい)に観察した。
 この主屋の構造はもともと下屋造である。この点は建築当初から変わっていないが、いくつかの箇所に改造の跡がみられた。
1) 建築当初はセガイ造ではなかったが、ある時期に前面および両側面3方の軒をセガイ造に改造した。この改造によって軒桁の位置が高くなる。セガイ造にしなかった背面では旧来の軒桁の上に新しく桁を重ねることで段違いを処理した。
2) 土間ニワ廻りでは、@土間下手中央に独立して建つウシモチ柱を、この部分に部屋を作ったさいに上端の1部を残して切り取った。A大戸口位置を1間下手に移したさいに、曲がり材の柱は建具の入る入口に適さないので、これに真っ直ぐな柱を添えた。B土間ニワを区切って小部屋を作ったさいに建てた新しい柱がある。C正面上手の1間半に差鴨居(さしがもい)を入れて柱2本を抜き取った。
3) オカミ廻りに大きな改造はしていない。ただ、この部分を2室、3室に分割したさいに新しい部屋境に差鴨居を入れた。また前面柱を1本抜き、開口を広げている。
4) デイ・ナンド廻り。デイでは上手通りの柱を1本抜いて開口部を広げた。ナンドでは下手の縁側を室内に取り込んで部屋を広くした。この際に縁側境に梁を入れて柱を抜いた。また、背面から半間入った桁行の梁を取り替えている。
5) 背面と下手側面の柱は、後世に取り替えられ、また、抜きとって開口部を広げている。桁はほとんどが取替えられ、また軒高を調節するために二重三重に重ねているところがあった。

d 造作、建具の復原考察

 建築当初の建具はなかった。造作、建具で注目されるのはデイである。修復前のデイは八畳で床の間を構え、竿縁(さおぶち)天井を張った書院座敷の形式になっていた。痕跡を調べてみると、床の間の柱面に土壁の跡があり、当初は床の間がなかったことがわかった。また、床脇の妻側の柱に格子窓の痕跡がある。その半間先に柱が立ち、格子窓の幅は半間であることがわかる。天井も後に張ったもので当初は梁組をあらわしていた。
 オカミの前面デイ寄り1間の柱間に格子窓の痕跡がある。また、オカミ・土間ニワ境中央の柱間内法の中間に敷居鴨居の痕跡があった。棚、格子、無双窓などの痕跡と考えられるが、今回は岩手県千厩(せんまや)の村上家住宅(岩手県指定文化財)のものを参考にして無双窓に復原した。
 建物が古いだけあって、もと壁であったところを建具に変える改造などが多くあった。また、前に記した通り、柱を板で囲ったので、柱が見掛け上は太くなり、その分で柱間寸法が短くなるが、柱を囲う以前の建具を調整して使っていた。今回の修復後も、建具の用途と意匠を考慮して取り付け位置を変えたり、建具寸法を調整したり、柱に添え板をして使用した。

e 屋根、軒

 修復前の屋根は、寄棟造茅葺きでその上に鉄板を被せてあった。建築当初は寄棟造茅葺きで、軒は大屋根を葺き下ろし、セガイ造ではなかった。軒をセガイ造りに変えた際に叉首(さす)に母屋受け材を添えて、屋根勾配を緩くしていた。セガイ造りにしなかった背面は、上屋(じょうや)位置で屋根下地を折り曲げ、側桁(がわげた)の上にもう一丁桁を重ねて屋根面をなだらかに葺き納めていた。

3 建物の古い要素とその特徴

 遊佐家主屋の建物の特徴、古い形式、古い要素などを復原考察した資料にもとづいて述べる。これらの事項は修復後の現況と異なっている箇所が多くある。

a 平 面

復原した間取りは、広間型三間取りである。この間取りは東北地方の古民家を代表する古形式の一つである。とはいえ広間型三間取りであるからといって、それだけでその民家の実年代が古いとはいえない。この間取りは江戸時代末期にも広く普及していた。遊佐家主屋の建築当初の間取りにみられる古い要素をあげる。
1)土間ニワと居室部との面積がそれぞれ半々を占め、新しい民家とくらべると土間ニワの割合が大きい。
2)オカミは表から裏まで通る1室であった。つまり広間型三間取りである。
3)床の間を構えた座敷がなかった。デイとナンド境は土壁で仕切られていた。デイの床の間は後世に設けたものである。
4)縁側がなかった。後世にオカミ、デイ前面から上手側面に縁側をまわした。

b 構造・材料

 建物の構造形式は下屋造(げやづくり)である。つまり、中央部に一段高い2間半の上屋があり、この四周に一段低い半間の下屋、さらにその外側に半間の下々屋(げげや)(孫下屋)がまわる。桁行は、ウシ梁とこれに準じる梁をほぼ棟通りに架けわたし、これら桁行の梁から前後の下屋に向かって梁を架けおろす。ウシ梁の前方と後方に架かる梁はやや異なった形状をしており、梁間断面の形状は左右(前後)対称でない。以下で、構造および材料にかかわる古い要素をあげる。
1)梁の断面が全般的に細く、3次元の曲がりのある材を用いている。細い梁を用いる例は17世紀後半前後の上層民家にみられる一つの傾向である。
2)側廻がわまわり・間仕切の柱は半間、1間ごとに密度高く建ち、差物を用いない。
3)土間にウシモチ柱が独立して建つ。遊佐家では独立柱はこの1本である。
4)上屋柱の長さは15尺弱、正面の下屋柱は12尺5寸、背面側柱は9尺であって、比較的短く軒が低い。
5)土間廻りの側柱のみでなく、上屋柱にも曲がり材を使っている。
6)柱材は土間廻りはクリ材、居室部はスギ材である。古民家の定法である。
7)側廻り・間仕切の柱間を土壁にしている箇所が多く閉鎖的である。
8)オカミ正面の間口は2間半で、柱が1間・1間・半間に建つが、梁は2間半の間口に対し二つ割に架ける。2間半二つ割は古い一構造である。
9)貫は足固(あしがため)と内法の2通りのみで腰貫や胴貫がない。貫断面が大きい。
10)軒はセガイ造でない。後世に前面と両側面の三方をセガイ造に改造した。

c 造作・部材の仕上げ・風化など

 この住宅は建築当初からの作りつけの造作が比較的少ない。
1)座敷飾の床・棚・書院がない。
2)建物全体にわたって天井を張っていない。
3)オカミの前面に幅1間の格子窓、デイの側面に半間の格子窓がある。同様の例は17世紀前半建築の横浜市関家住宅(重要文化財)にある。
4)部材仕上げは、土間ニワ廻りにチョウナなどを用いかなり荒い。居室廻りはカンナ仕上げである。
5)外部に面する柱など部材の風化が大きい。内部にあっても柱足元などに相当大きな風化風蝕がみられる。

4 古さを活かした快適な家づくり

 家相図を作った昭和12年(1937)以来、三分の二世紀過ぎた2004年に、遊佐家の修復は行われた。この間に、アジア太平洋戦争と敗戦、その後の日本経済高度成長、バブルの崩壊など人々の生活様式は大きく変容した。一方、建築後300年を経過する遊佐家は、不同沈下や腐朽によって破損が著しくなった。冬の寒さに対して土間ニワを細かく区切って暖房の効率を上げるような改造もした。しかし、長女の三浦康子さんの寒い家に住む父親への気遣いは続いていた。そこで冬も寒くない家に改修する決意をしたのである。

a 建物の特徴を生かし快適に住む

 遊佐家の主屋は建築年代が古いだけに後世の改造が多い。今後の生活する住空間として300年前の建築当初の姿を厳密に再現することには無理が多い。そこで高断熱高気密の仕様によって寒くない家にし、主屋本体の外側に「働きの部分」を付設して快適な生活ができる助けとした。また、300年前の復原はしないものの、建築当初の姿を頭の中で描きながら、その雰囲気がでるような工夫をした。
 300年前の空間の雰囲気は、土間ニワにもっともよくあらわれている。(12〜18頁)ここは正面の風除室から入ると豆砂利洗出し仕上げの土間であり、そこに太いウシモチ柱が建ち、この奥の板敷きに台所があり、システムキッチンや戸棚が設置してある。このように土間ニワは幾つかの機能をもつが、固定した間仕切りを作らず、天井を張らずに梁組をあらわし、本来の大空間に復したのである。
 ところで、現状を踏襲とうしゅうし復原しなかった主なところは次の通りである。外観はほとんど新しい材料を用いて整備している。@屋根は本来茅葺きであるが、修復前と同様に茅葺き型鉄板葺きとした。A外壁には新建材を貼った。
 次に内部。平面の骨格は復原したが、縁側を撤去せず一部で修復前のものを踏襲した。@オカミ部分は3室に分割されていたが、現状を踏襲して1室に復原しなかった。Aナンドは後世に縁側部分を取り込み天井を張ってあったが、これらを復原せず、天井を新たに張り替えた。

b 快適に住むための「働きの部分」

「働きの部分」は、文化財そのものではないが、文化財に付随して文化財そのものの価値を十分発揮させ、文化財の有効な保存、活用のためにもうけられる建物、設備などである。遊佐家では、土間ニワの下手に接して、八畳に縁側と押入のついた「おじいさんの部屋」・家事室・便所・手洗い・洗濯室・勝手口を作った。さらにオカミの背後に下屋をおろして浴室・洗面所・便所を設けた。

5 むすび

今回の修復によって、建物全体が冬も寒くなく暖かい家になり、居心地よく全体が広く使える家になった。この家のみどころの第一は土間ニワである。土間ニワでは、細かく仕切っていた間仕切りと天井を取り去り梁組をあらわした。その結果、容量が大きく品格があり大変に魅力的な住空間が再現した。



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